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特集ワイド:この夏に会いたい/「今、原子力を問う」1986年 原子力資料情報室代表・高木仁三郎さん [高木仁三郎]

「今、原子力を問う」1986年NHK

司会 橋本大二郎。 生田豊朗、高木仁三郎、藤田祐幸、久米三四郎ほか。




▽久米三四郎先生プロフィール

大阪帝国大学卒業。製薬会社勤務を経て、大阪大学理学部講師を務めるかたわら、反原発の運動家として全国各地で多数の講演を行った。反原発運動全国連絡会を結成し、『はんげんぱつ新聞』の発刊にも携わっている。

1973年、国内で初めて原発の安全性が問われた、四国電力の伊方原子力発電所設置許可取り消し請求訴訟において、原告(住民)側補佐人を務めた。

高速増殖原型炉もんじゅの設置許可の無効確認を求めた行政訴訟(もんじゅ訴訟)でも、原告側の特別保佐人として、建設に反対の論陣を張った。

2009年、83歳で死去。

著書 『ソ連・原発事故あなたの不安にお答えする相談室』(1986年、京都反原発めだかの学校)
『科学としての反原発』(2010年、七つ森書館)
共著 [編集]『原発の安全上欠陥』(1979年、第三書館)共著:小出裕章ほか
『知ればなっとく脱原発』(2002年、七つ森書館)共著:高木仁三郎、西尾漠、小出裕章ほか
『希望の未来へ 市民科学者・高木仁三郎の生き方』(2004年、七つ森書館)共著:鎌田慧、佐高信、澤地久枝、斎藤文一ほか


▽藤田祐幸(ふじたゆうこう)先生プロフィール

東京都立大学理学部物理学科卒、同大学院理学研究科物理学専攻博士課程。エントロピー論、科学哲学専攻。現在慶應義塾大学物理学助教授、日本物理学会所属。物理学者の立場から、放射能が人体と環境に及ぼす影響を訴え続け、原発や被曝労働の実態調査、1990年~93年チェルノブイリ周辺の汚染地域の調査、1999年、ユーゴスラビア・コソボ地域で劣化ウラン弾の調査を行う。2003年5月末からバクダッドとバスラに入り、劣化ウラン弾による被害状況と環境汚染を現地調査、放射能測定などを行った。7月にイラク支援法案を審議中の衆議院特別委員会で、参考人意見陳述を行い、「小児がんセンター」の設置など、医療水準の改善に寄与することを強く訴える。主な著書:『知られざる原発被曝労働・ある青年の死を追って』(岩波ブックレット)『脱原発エネルギー計画』(高文研)『原子力発電で本当に私たちが知りたい120の基礎知識』(東京書籍・共著)『エントロピー』(現代書館・共著)『ポスト・チェルノブイリを生きるために 暮らしと原発』(御茶の水書房)



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☆このNHKの討論番組、25年前のチェルノブイリ事故の起こった直後に作られた番組だと思われます。原発に反対側の出席者は、高木仁三郎先生、久米三四郎先生、藤田祐幸先生です。
高木先生、お若いですね。

この番組内でテレビ世論調査が行われています。
質問は
「日本の原発は今後どうすべきだと思いますか?」
その結果は

①増やす・・・8%
②現状維持・・31%
③減らす・・・33%
④全廃する・・22%
⑤無回答/わからない・・6%

なんとなく現在の世論調査と結果が似てませんか。
このときでさえ原発を止める方向を支持する人が「減らす、全廃」合わせて55パーセント、過半数を超えていたんですね。
しかし、現実には原発を止めることは出来なかった。
このとき、もし原発をとめることが出来ていたら、今日の福島の悲劇は防げたんだと思うととても残念です。
翻って現在の世論調査を見ると、やはり「原発減らす、全廃」がどこの調査を見ても多分過半数を超えています。
しかし、この過去の歴史に学ぶならば、今の世論が決してそのまま脱原発へつながるものではないということは心しなければいけません。
ある原子力村の推進派議員は「あと半年も経てば世論も変わる」と高をくくっていました。
こんなことを平気で推進派に言わせたままでいいんでしょうか。
国民は絶対に忘れてはいけません。
推進派の脅しに屈したり、懐柔策に乗ってはいけません。
油断は出来ません。
絶対に同じ轍は踏まない、二の舞にはしないという覚悟が必要だと思います。。

☆↓高木先生が今ご存命だったらどんなにか心強かったことでしょう・・・。。。
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特集ワイド:この夏に会いたい/10止 原子力資料情報室代表・高木仁三郎さん



 ◇あきらめから希望へ 「市民科学者」に徹して
 古びたテープレコーダーとカセットテープ十数個が2階書斎に残されていた。千葉県鴨川市の田園にある高木さんの自宅。出迎えてくれた妻の久仁子さん(66)は晩年がんの闘病生活を送りながら原稿を書く高木さんの姿を語った。「仁さんはモーツァルトの音楽をかけながら、そのイスに座って、テープレコーダーに原稿を吹き込んでいました」

 東大で核化学を学び、30歳の若さで大学助教授となった「原発エリート」は、熟慮の末、脱原発に転じ、生涯をかけて50冊を超える本を残した。東京電力福島第1原発の事故以来、新聞や雑誌には日々、この人が発していた「警告」が引用される。

 高木さんが亡くなったのは2000年10月。その2カ月後に出版された「原発事故はなぜくりかえすのか」(岩波新書)では、原子力村についてこう書いている。<原子力村というのは、お互いに相手の悪口を言わない仲良しグループで、外部に対する議論には閉鎖的で秘密主義的、しかも独善的、という傾向があります>。安全意識にも苦言を呈する。

 <ことさらに安全、安全と言うことによって安全が身につくのではなくて、技術というものの一部に、人間の生命を大事にするような思想が自然と組み入れられていないといけない> 読むほどに、原発事故は起こるべくして起きた、と思えてくる。

  ■

 高木さんは7歳の時に終戦を迎えた。「米英は鬼畜の類いだ」と言っていた教師が、玉音放送を境に「これからは民主主義の社会で米軍(駐留軍)は解放軍だ」と手のひらを返す。自伝的な著書「市民科学者として生きる」(岩波新書)では<国家とか学校とか上から下りてくるようなものは信用するな(中略)なるべく、自分で考え、自分の行動に責任をもとう>と思ったと書いている。

 現役で東大に合格。安保闘争中だったがあまり関心を示さず、プルトニウムを含む人工元素の生成に魅せられ、核化学を専攻する。卒業後、原発関連会社に入社。原子炉の水に放射性物質がどのくらい溶け込んでいるかを研究したところ、上司から「(汚染の研究は)会社向きではない」と忠告された。会社での居場所を失い、東大原子核研究所に転職、宇宙からの放射線を研究した。このころ水俣病などの公害が問題になり、高木さんは「放射能汚染に絡む公害問題が出たら、正面から向かい合えるか」と自問するようになる。 矛盾を抱えたまま69年、東京都立大学助教授に就任。当時は日米安保更新をめぐる学生運動のさなか。高木さんは学生側に共感し、成田空港建設に反対する地元農民の活動「三里塚闘争」にもかかわった。現場では農民が農地を守るため体ひとつで抵抗していた。高木さんは<心情的には農民の側にいるが、実際には明らかに自分は巨大システムの側にポストを占めているのではないか>(「市民科学者として生きる」)と再び自問した。岩手県出身の童話作家で、詩人の宮沢賢治の言葉に出合ったのは、このころだ。

 「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」

 賢治が農民に行った講義の演題だった。73年、高木さんは大学を辞す。2年後、脱原発活動を行う市民団体「原子力資料情報室」の世話人となり、米スリーマイル島原発事故(79年)や、旧ソ連チェルノブイリ原発事故(86年)で、脱原発派の科学者・市民活動家として頭角を現していく。

 眼光鋭く、周囲から「野武士」と呼ばれていた。息抜きに仲間に誘われていくカラオケでは、石原裕次郎さんの「嵐を呼ぶ男」を手を振りかざして歌った。高木さんの都立大学時代の教え子で、高木さんの著作全集も出している七つ森書館(東京都文京区)の社長、中里英章さん(61)は「ちょっとカッコ付けているところもあって」とほほ笑む。

 チェルノブイリ後、哲学者の花崎皋平(こうへい)さんとの対談集「あきらめから希望へ」(七つ森書館)を出版。「いつも希望について語っていきたいという思いを込めて」とつけたタイトルだった。しかし、現実は厳しかった。高まる反原発運動に乗じ「脱原発法」の制定を求め90~91年に330万人の署名を国会に提出したものの、無視されたのだ。高木さんはこの挫折をきっかけにうつ病を発症。医師に「休養が必要」と診断され、料理を作ったり、モーツァルトを聴いて数カ月間を過ごした。

 中里さんは「仁さんは、国や企業のための科学ではなく、農民や労働者、学生をひっくるめた市民のための科学を、大学や研究所に所属せずに自ら切り開いた自負心があった。一方、何をやっても成功しないいらだち、お金の工面などで内心は葛藤に次ぐ葛藤もあったと思います。それでもあきらめずに希望をもって、自らの運動と生きることが一つになることを求め続けていました」と語る。

  ■

 「走れコウタロー」「岬めぐり」で知られるフォーク歌手で白鴎大教授(社会学)の山本コウタローさん(62)に都内の喫茶室で会った。70年代に公害問題に関心を持ち、反原発活動にも取り組んできた人だ。高木さんとは80年代中ごろ、反原発のシンポジウムなどで知り合い、高木さんが代表を務めた情報室に何度か足を運んだ。テレビの討論番組「朝まで生テレビ!」に反原発側の論客として一緒に出演している。

 山本さんは手持ちのファイルから数枚の紙を取り出した。96年の原子力資料情報室通信。高木さんはチェルノブイリから10年の教訓と題し、こう書いている。<事故は、防災・避難・損害賠償(国際的にも)・正確な情報伝達・食品汚染など多くの点で、現代社会がこの種の巨大事故にまったく備えがないことを示した。この教訓はどれだけ活(い)かされたか

 「結局、政府や経済産業省、東電はチェルノブイリから何も学んでいない」と山本さん。「(3・11後は)大量消費という生き方が問われている。高木さんは著書で希望について語っているが、あれは、お金やものをたくさん作るのとは違う生き方を選ぶことができるんだよ、という問いかけだと僕は思っています」

 高木さんは亡くなる直前まで本を書き続けた。久仁子さんは言う。「仁さんは今の福島の事故じゃないけど、いつどんな事故が起きてもおかしくないと危機感を持っていました。自分の命はもう長くないが、次世代の人たちには原発がない世の中で生きてほしいと願っていました。国ではなく市民が現実を選んでいける社会にしていく。そのことをあきらめずに希望を持って訴え続けたと思います」

 残されたメッセージをどう生かすか--「野武士」に静かに問われているような気がした。【宍戸護】=おわり


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’反原発のカリスマ’の警告が排除された理由 [高木仁三郎]

★2011年7月4日、YTV(読売テレビ)「かんさい情報ネット」が放送した
『今、注目…“反原発のカリスマ”と呼ばれた学者』
この番組内で京都大学・小出裕章先生がコメントをされています。
必見です!!
http://www.ytv.co.jp/ten/sp/index.php?dateList=201107

★番組案内

16年前、すでに福島原発の危険性を訴えていた一人の核化学者がいました。“反原発のカリスマ”と呼ばれたその人に今、注目が集まっています。


高木仁三郎:今、注目..."反原発のカリスマ"と呼ばれた学者


▼京大・小出裕章さんが高木仁三郎先生についてコメントされています。(1分50秒あたりから)
「原子力が絶対安全なんてことは少しでも専門を知っている人であれば思う道理がない。
倫理観溢れる人でしたので、原子力は絶対に安全です。 事故などは起こしません。といって進める日本の原子力に唯々諾々として、ついていくということが彼には出来なかったということだと思います。」

参照http://seto.blog.so-net.ne.jp/2011-05-07-1#favorite
http://seto.blog.sonet.ne.jp/20110704

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◇原発推進の読売テレビが、この時期に反原発の高木先生を取り上げる!?とは少々驚き・・・

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☆九州電力「やらせメール」依頼の全文 2011/7/7
http://www.nikkei.com/news/category/related-article/g=96958A9C93819695E2E4E2E7918DE2E4E2E5E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;at=ALL 


九州電力原子力発電本部の課長級社員が関係会社の社員に送ったメールは以下の通り。





 【ご依頼】国主催の佐賀県民向け説明会へのネット参加について 2011年6月22日14時16分26秒

 協力会社本店 各位

 平素よりお世話になっております。メール投げ込みにて失礼を致します。標記については、報道等により今週末に開催される旨、既にご承知のことと存じます。

●件名:国主催による佐賀県民向け説明会(原子力発電所の安全性)

●日時:平成23年6月26日(日)午前(10時~11時30分の予定)

●内容:説明会の方式は国が調整中。混乱を避けるため、県民、4、5人が経産省原子力安全・保安院と資源エネルギー庁の担当者から説明を受け、疑問点や不安に思う点などを質疑する予定。

●配信:(1)やり取りはケーブルテレビとインターネットで生中継され、視聴者からの質問もファクスや電子メールで同時に受付。(2)アクセス可能なwebsiteアドレスは、現時点で未公開ですが、佐賀県庁HPや経産省HPに掲載予定。あるいは、Ustreamにて“genkai”あるいは“玄海”等で検索することによりアクセス可能。(3)小職にて、継続してサーベイし、判明次第、追って追伸予定。

●その他:(アドレス略)

 本件については、我々のみならず協力会社におかれましても、極めて重大な関心事であることから、万難を排してその対応に当たることが重要と考えております。 つきましては、各位他関係者に対して、説明会開催についてご周知いただくとともに、可能な範囲で、当日ネット参加へのご協力※をご依頼いただきますよう、御願い致します。 ※説明会ライブ配信websiteにアクセスの上、説明会の進行に応じて、発電再開容認の一国民の立場から、真摯に、かつ県民の共感を得うるような意見や質問を発信。  なお、会社のPCでは処理能力が低いこと等から、是非、ご自宅等のPCからのアクセスを御願い致します。 また、ネット参加に当たっては、接続後アカウントの取得等操作が必要になりますので、ご承知置きください。

 以上





 続報【ご依頼】国主催の佐賀県民向け説明会へのネット参加について 2011年6月24日9時26分9秒

 協力会社本店 各位

 平素よりお世話になっております。先にご依頼申し上げました標記については、以下URLにより詳細確認可能ですので、よろしく御願い致します。なお、ご意見はメールあるいはファクシミリでの受付されるとのことであり、接続後のアカウント取得等操作は不要なようです。

 以下URLにアクセスください。

 佐賀県(アドレス略)

 経産省(アドレス略)

 以上
__________________________________________

*これが九電のやらせメールの証拠ですね。 どうもツイッターにも九電のやらせ疑惑があるみたいですよ。 このメールのせいか、ストレステストの実施のせいかわかりませんが、とにかく玄海原発が暫く再稼動できなくなったのはひとまずよかったですね。。。。
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「反原発のカリスマ 高木仁三郎」 [高木仁三郎]

▼2011.07.03にTV朝日系番組「サンデー・フロントライン」が、原子力資料情報室の元代表・故高木仁三郎先生について採り上げました。
高木先生は既に16年前に今日の福島第一原発の事故を、日本物理学会誌の1995年10月号に掲載された論文「核施設と非常事態―地震対策の検証を中心に―」で”予言”されていた方です。
必見です!!!

参照http://seto.blog.so-net.ne.jp/2011-05-07-1#favorite

高木仁三郎先生については
高木仁三郎の部屋


「反原発のカリスマ 高木仁三郎」







◇経歴
1938 7月18日、群馬県前橋市に開業医の子として生まれる。
1957 群馬県立前橋高等学校を卒業し東京大学理科一類に入学。
1961 東京大学理学部化学科を卒業(核化学)。日本原子力事業(NAIG)に入社しNAIG総合研究所核化学研究室に勤務。
1962 G. Seaborg "The Transuranium Elements"(1958)を神田の古書店で購入。
1965 7月、東京大学原子核研究所助手となり宇宙核化学を研究。朝日学術奨励金を得たプロジェクトでアルミニウム26の検出に従事。
1969 論文「宇宙線ミュー中間子と地球物質との反応生成物の研究」で理学博士号取得(東京大学)。7月、東京都立大学助教授に就任(理学部化学教室)。このころ同人誌『ぷろじぇ』に参加。三里塚闘争にかかわり始める。
1972 5月から独ハイデルベルクのマックス・プランク核物理研究所客員研究員(73年5月まで)。
1973 8月末をもって東京都立大学を退職。主に翻訳で生計を立てつつ雑誌原稿などを執筆。
1974 プルトニウム問題を考える自主グループ「プルトニウム研究会」を組織。
1975 「プルトニウム毒性の考察」(岩波書店『科学』5月号)。8月、京都で「反原発全国集会」。9月、原子力資料情報室が設立され(武谷三男代表)、専従世話人となる。
1976 内部告発による美浜原発1号の燃料棒折損事故を追及。◇プルートーンの火(社会思想社教養文庫)
1978 反原発運動全国連絡会『反原発新聞』創刊。編集長を務める(88年まで)。
1979 3月28日、米スリーマイル島原発事故。◇『科学は変わる』東経選書[社会思想社教養文庫1987]
1980 ◇スリーマイル島原発事故の衝撃[編著](社会思想社)
1981 ◇プルトニウムの恐怖(岩波新書)/危機の科学(朝日選書)
1982 ◇元素の小事典(岩波ジュニア新書)[新版1999]/わが内なるエコロジー(農山漁村文化協会人間選書)
1983 ◇核時代を生きる(講談社現代新書)
1984 ◇核に滅ぶか?[前田哲男との対談]径書房
1985 9月、日比谷公会堂での「三里塚・東峰裁判完全勝利をめざす集会」実行委員長。◇単位の小事典(岩波ジュニア新書)[新版1995]/いま自然をどうみるか(白水社)[増補新版1998]
1986 4月26日、チェルノブイリ原発事故。秋、ヨーロッパを訪問。◇チェルノブイリ―最後の警告(七つ森書館)/森と里の思想[前田俊彦との対談](七つ森書館)/原発事故――日本では?(岩波ブックレット)
1987 1月、原子力問題の講師養成のため「反原発出前のお店」開講。5月、原子力資料情報室の代表に就任。◇われらチェルノブイリの虜囚[水戸巌らと共著](三一新書)/科学の「世紀末」[関曠野との対談](平凡社)/あきらめから希望へ[花崎皋平との対談](七つ森書館)
1988 4月24日の反原発運動全国集会(原発止めよう2万人行動・日比谷公園)事務局長。脱原発法制定運動を提起。
1989 ◇巨大事故の時代(弘文堂)
1990 ◇食卓にあがった死の灰[渡辺美紀子と共著](現代新書)
1991 原子力資料情報室とグリーンピース・インターナショナル共催「国際プルトニウム会議」(大宮市)。◇下北半島六ケ所村・核燃料サイクル施設批判(七つ森書館)/核の世紀末―来るべき世界への想像力(人間選書)
1992 多田謡子反権力人権賞を受賞。◇マリー・キュリーが考えたこと(岩波ジュニア新書)
1993 1月、「日本の脱プルトニウムへ向けた希求と、日本政府のプルトニウム政策転換を求める強い意志を表わすため」(「脱プルトニウム宣言」)科学技術庁前でハンスト。9月、原子力資料情報室がシンポジウム「今、なぜプルトニウムか」を開催(日本原子力産業会議と共催)。『マリー・キュリーが考えたこと』でサンケイ児童出版文化賞を受賞。◇反原発、出前します!―高木仁三郎講義録(七つ森書館)
1994 ◇プルトニウムの未来―2041年からのメッセージ(岩波新書)
1995 11月、国際MOX燃料評価(IMA)プロジェクトを開始。研究代表を務める。イーハトーブ賞を受賞。◇宮澤賢治をめぐる冒険―水や光や風のエコロジー(社会思想社)
1996 ◇もんじゅ事故の行きつく先は?(岩波ブックレット)
1997 11月、IMA最終報告書"Comprehensive Social Impact Assessment of MOX Use in Light Water Reactors"(MOX燃料の軽水炉利用の社会的影響に関する包括的評価)を発表。12月3日、長崎被爆者手帳友の会平和賞を受賞。12月8日、スウェーデンでライト・ライブリフッド賞を受賞。
1998 1月、「オルターナティブな科学者を育てる」高木学校の呼びかけ。7月、大腸ガンが発覚。8月末日をもって原子力資料情報室代表を退任。9月、科学者の声明「科学技術の非武装化を」(岩波書店『世界』9月号)に参加。12月、高木学校Bコース第1回連続講座「化学物質と生活」で「プルトニウムと市民」を講演。◇このままだと「20年後のエネルギー」はこうなる(カタログハウス)
1999 2月6日、NHK教育TV「未来潮流:科学を人間の手に-高木仁三郎・闘病からのメッセージ」。声明「成田空港の滑走路暫定案を白紙に戻すよう訴えます」(8月発表)を起草。9月7日、原子力資料情報室が特定非営利活動法人の認証を受ける。9月30日、茨城県東海村のジェー・シー・オー東海事業所で臨界事故。『恐怖の臨界事故』を口述。9月から、高木学校Bコース第2回連続講座「エネルギーと生活」。◇市民の科学をめざして(朝日選書)/市民科学者として生きる(岩波新書)/恐怖の臨界事故(岩波ブックレット)
2000 4月28日、青森地裁での核燃料サイクル施設許可取消訴訟で証言。7月2日、第9回田尻賞を受賞。7月発表の地層処分問題研究グループ報告書『「高レベル廃棄物地層処分の技術的信頼性」批判』に論文「現在の計画では地層処分は成立しない」を執筆。10月8日午前0時55分、東京都中央区の聖路加国際病院で死去。◇"The Criticality Accident at Tokai-mura-1mg of uranium that shattered Japan's nuclear myth," J.Takagi and CNIC(CNIC)/原子力神話からの解放―日本を滅ぼす九つの呪縛(光文社カッパブックス)/証言―核燃料サイクル施設の未来は(七つ森書館)/鳥たちの舞うとき(工作舎)/原発事故はなぜくりかえすのか(岩波新書)

参考:
高木仁三郎『市民科学者として生きる』岩波新書(1999)
原子力資料情報室『脱原発の20年』原子力資料情報室(1995)


 
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「想定外」、16年前に警告 高木仁三郎  [高木仁三郎]

故高木仁三郎先生(原子力資料情報室元代表)が 日本物理学会誌の1995年10月号に掲載された論文「核施設と非常事態―地震対策の検証を中心に―」で「想定外」という姿勢に当時から警鐘を鳴らし、福島第1原発の危険性を指摘する“予言”をされていました。

以下その中から一部抜粋。

仮に、原子炉容器や1次冷却材の主配管を直撃するような破損が生じなくても、給水配管の破断と緊急炉心冷却系の破壊、非常用ディーゼル発動機の起動失敗といった故障が重なれば、メルトダウンから大量の放射能放出に至るだろう。もっと穏やかな、小さな破断口からの冷却材喪失という事態でも,地震によって長期間外部との連絡や外部からの電力や水の供給が断たれた場合には、大事故に発展しよう。~中略~
さらに、原発サイトには使用済み燃料も貯蔵され、また他の核施設も含め日本では少数地点への集中立地が目立つ(福島県浜通り、福井県若狭、新潟県柏崎、青森県六ヶ所など)が、このような集中立地点を大きな地震が直撃した場合など、どう対処したらよいのか、想像を絶するところがある。~中略~
考えられる事態とは、たとえば、原発や核燃料施設が通常兵器などで攻撃されたとき、核施設に飛行機が墜落したとき、地震とともに津波に襲われたとき、地域をおおうような大火に襲われたときなど、さまざまなことがあげられる。~中略~
そのような事態を想定して原発の安全や防災対策を論じることは、「想定不適当」とか「ためにする論議」として避けられてきた。~中略~
考えうるあらゆる想定をして対策を考えていくことが、むしろ冷静で現実的な態度と思われる。

もう想定外だったとは言わせない!
http://ci.nii.ac.jp/els/110002066513.pdf?id=ART0002195281&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1304767227&cp=

http://ci.nii.ac.jp/naid/110002066513

高木仁三郎先生については
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